プロフィールと歴史

■ 聖 堂

いつでもお祈りできるように、聖堂は開かれています。

■ 勉強会

聖書を紐解きながら、信仰を深めてゆく勉強会を開催しています。スケジュールについては教会までお問い合わせください。

子供のためには日曜日ミサ後に先生の下で教会学校を開いています。

■ 冠婚葬祭

通常通りできるだけ信徒の皆さんに役に立つように対応しますので、遠慮なくご相談下さい。

※結婚式、葬儀とも信徒の方が対象です。未信徒の方は教会までご相談ください。

■ 聖堂・信徒会館・事務所は一つの建物になっています。駐車場もあります。

■ 洗面所は狭いですが、男女別で、暖房便座となっています。

  男子用トイレは車椅子の方も利用できるように、工夫されています。

■ 駐車場

25台分くらいの駐車スペースがありますが、ここが満車の時は隣の 時間貸しの有料駐車場をご利用下さい。 なお、教会の駐車場は平日も空いていれば利用できますが、許可証をお求め下さい。

平針教会の歴史

  • 1975年7月
    名古屋市昭和区の南山教会が担当していた地域の発展著しい天白地区に新しい教会をという相馬司教のご要望と、修道会の援助のご意向が南山教会の主任司祭七種照夫神父から南山教会の信徒に伝えられた。 9月には助任司祭の奥村功神父が担当司祭となり、「天白地区協会設立準備委員会」が結成され、具体的な検討に入った。しかし、次の年、1976年2月奥村師が秋田県の能代教会の転勤になり、代わりに助任司祭であったプルム神父が準備委員会の担当司祭となり、設置計画が継続された。 同年5月にはこの「準備委員会」は「天白地区新教会設立計画委員会」となり、南山教会内に設置、プルム神父が担当司祭として就任。募金活動と祈りを主眼にした「天白地区新教会設立計画書」が作成された。
  • 1976年11月
    相馬司教を発起人に新教会設立募金発起人会が結成され、建設資金の国内募金活動が始まった。 1977年4月に新教会の場所の選定も行われ、神言会と南山学園の協力の下に現在の土地が購入され、その一部が小教区専用の土地として利用されるようになった。 住所は現在の日進市赤池町西組116番地に決定。1977年6月から、設立委員会が練った「建築プラン」を南山教会の信徒に示し、意見の求めた。
  • 1978年1月
    「新教会の設計要綱」をまとめ、設計業者に依頼。4月には信徒に具体的な計画を提示し、計画の浸透と理解を深めた。 競争入札の結果、信徒の国分設計に依頼、施工は竹中工務店と決まった。 建物設計にあたって国分氏は「地域に開かれた教会」「地域の拠点となる教会」「地域に根ざした建築」「地域のシンボルになる教会」「近代感覚を備えながらも信仰の場となる教会」などを目指して設計されたと明かしておられる。新教会名を「カトリック平針教会」とし、「日本二十六聖人殉教者」に捧げられた教会することが決まった。 また同時に建設予定地に近い場所(天白町平針向山)に間借りして、「平針教会開設準備室」を設置。1978年5月には「新教会設計図」が完成。同年9月に土地祝別を行い、建築工事が始まる。
  • 1979年5月13日
    献堂式は相馬司教司式のもとに、南山教会の信徒、神言会の宣教師の参加の下に盛大にお行われた。 聖堂内には、祭壇は揖斐川産の自然石を利用し、祭壇の下には1667年尾張藩内高木で殉教したキリシタンの遺骨が納められた。また、聖堂後方にはライストナー女史作の「嵐の中の静けさ」を表すステンドグラスが設置され、聖堂前のロビーには日本26聖人殉教者の壁画レリーフが取り付けられた。 所在地は地下鉄鶴舞線沿線の、名古屋東部の地域の小教区として、本格的に南山教会から独立した小教区となった。 南山教会に籍を置いていた信徒約200名が平針教会所属の信徒となり、出発した。 初代の主任神父は、教会設置の準備段階から関わった南山教会の助任司祭のプルム神父が就任し、小教区の活動の姿を示し、引き続いで借金の返済のために、信徒と一丸となって取りくんだ。 彼が転勤する頃にはその謝金の返済も終わっていた。 プルム神父の時代には、神言会の司祭や神学生の活動の場ともなり、多くの外国からの神学生とも親しくなり、教会学校などを手伝った神学生が司祭となり、信徒の皆さんの励みにもなった。
  • 1979年5月
    献堂式の直後、5月19日には第一回平針教会信徒会が開かれ、「信徒総会(月一)」「幹事会」などが組織され、「親(おや)教会」にあたる南山教会の主任司祭七種神父にお礼の会が開かれ、夏には近隣の人たちを対象にした「地域親睦の夕べ」などが開催され、地域に溶け込む教会として実質的な小教区活動が始まり、9月には教会学校や研究会なども計画された。9月には「カトリック教会たより」の第一号が発行された。
  • 1980年3月16日
    信徒会において「信徒会規約」「幹事会規約」が承認された。 またこの年の4月から洗礼、初聖体、堅信式、結婚式も行われるようになった。 7月から宣教師の母国への帰国休暇を得て、プルム神父が留守の間、4ヶ月にわたってシーランド神父が担当した。年4回程度の発行で「カトリック平針教会たより」が、小教区の活動や会計報告などが行われた。
  • 1982年6月26日
    相馬司教様を囲んでの歓談会が行われ、特に司教様が関わっておられた正義と平和の問題について壮年の信徒と活発な意見の交換があり、有意義な一時となった。
  • 1983年
    平針と同じく名古屋の近郊の高蔵寺ニュータウンに教区の教会として高蔵寺教会が創設された。
  • 1984年
    教会創設5年を迎え、来し方の5年を振り返りながら新たな決意がされた。
  • 1987年4月
    プルム師の転勤に伴い、金子精二師が新潟から主任司祭として就任。金子師は「現代に生きる小教区教会」を掲げ、取り組み始めた。 時に日本の教会では「ナイス1」が開催され、教会も活動や研究会が盛んになった。
  • 1989年
    教会創設10周年を祝い、記念誌を発行した。
  • 1990年9月30日
    名東区の極楽に名東教会設立され、祝福式があった。1992年頃から築15年になる教会建物の修理のための備えが必要という動きが出てきた。焼却炉、玄関のスロープ、屋根の修理、また職員の待遇などについてなどが検討され始めた
  • 1995年3月
    屋根(屋上)の修理を行った。1996年6月金子師入院、川上栄光師が代理として働くが、同年9月に聖霊病院にて帰天、(享年65歳)。川上師は継続して勤務1997年3月まで担当した。
  • 1997年4月
    リチャード師が主任となり赴任。これを機に、当時の幹事長が主任司祭の意向を入れ、ミサ時間の変更、事務室の使い方、主任司祭室、司祭の居室空間(二階の使いかた)など変更された。 同時に内装修理なども行われた。1997年8月には「納骨堂の設置」を検討するグループができた。またこの頃から、事務職員の条件、結婚式葬儀に対する受け入れ体制について検討されるようになった。 1998年から建物の補修・不具合のチェックなどが行われ始め、可能なところは工事を行う。(天窓、焼却炉、外に流し台など)主任司祭が変わり、信徒の活動が盛んになったというふりかえりが見られた。
  • 1999年夏
    聖堂、ホール、会議室などのエアコンの取り付け・修理などが行われた。
  • 2000年末
    ホームページ作成。
  • 2001年6月
    フリッツ師が助任として赴任。長年懸案であった納骨室がホールの奥の小部屋に設置計画。(費用約250万円)2001年11月に完成を。また、この時期、駐車場の整備や和室の雨漏りなどの修理も行われた。リチャード師が長浦教会に転勤。
  • 2002年4月
    宮崎保司師が主任司祭の就任。 教会活動についてはこれまでを継続しながらも、「ネバーギブアップ」を標語に取り組み、中高生の活動に力を注いだ。 二階の部屋の使い方について、司祭館として司祭の執務室として利用する方向で利用されるようになった。
  • 2004年
    主任司祭の銀祝と教会創設25周年の祝いを行った。 初聖体、堅信式、敬老会、巡礼などが行われ、小教区の活動が盛んに行われた。
  • 2006年4月
    竹谷基師が主任として就任。この間、主任の特技である「野宿者」への配慮が盛んで、多くの信徒が協力した。
  • 2007年4月
    森山勝文師が主任として就任。それまで比較的若い主任であったが、森山師は、金子師の年代(65歳)に次ぐ年齢で、信仰共同体として、ミサに参加し、そこからの恵みで日常生活がそれぞれの信仰に基づき行われるように配慮した。「24時間営業を」をモットーに、教会への連絡に対しては必ず応答するように心がけた。 2008年には引退した春日井直吉師が司祭館に同居し、小教区の活動に協力した。
  • 2009年
    教会創設30周年を記念して、行き交う人のご保護を祈り、屋外に「マリア像」を設置した。 また、聖堂内に秋山康恵氏による「十字架の道行き」のレリーフを掲げ、同時に聖堂内の木製の十字架に「キリスト像」を掲げた。
  • 2013年頃から
    築35年も経つ建物の「劣化箇所」が見られるようになり、リニューアルを検討した。 まず建物の耐震診断検査を2014年2月に行った。 診断結果は、尖塔を含め建物の耐震工事の必要は無いとの事で、同時に検討していた「リニューアル工事」を進めることにした。 「アルク建物研究所」のアドバイスをもらいながら、建物のどこを、どの程度修復するか、検討した。 すべてを「リニューアル」すると、2,300万円くらいかかることが分かった。費用の面からは「これまでの積立金」内で行うこと、年間の教会の運営費約700万円は残すことを教会委員会で決定し、最終的に1,500万円くらいの費用でリニューアルすることに決定した。 特に取り組んだのは、「タイルの外壁の洗浄」「浮きタイルのチェックと補修」「建物全体のコーキング部分の取り替え」「尖塔内部と鉄部分の塗装」「屋根の一部防水工事」「排煙窓の修理、網戸の設置」であった。費用面から今回取り組めなかった箇所は「銅板の屋根の防水工事」「屋根の大部分の防水工事」「室内の照明器具の取り替え」「室内の内部壁紙の取り替え」などは将来に残した。 なお、改修費用の募金については3年間で1,500万円を目処に募金することにした。借金して費用の捻出はしなかったが、今後の信徒が、建物の維持のためにも寄付をくださるように呼びかけていくことにした。 なおリニューアル工事は平針教会の施工を行った竹中工務店に依頼し、2014年7月から9月までの工事であった。 (文責・森山勝文、2014年9月9記)
  • 2017年
    イグナシウス・クリスティアヌス・バサ(通称インセン)が助任司祭として着任。
  • 2018年4月
    イグナシウス・クリスティアヌス・バサ(通称インセン)が主任司祭として着任。
  • 2021年3月
    イグナシウス・クリスティアヌス・バサ(通称インセン)転任
  • 2022年4月
    大海神父が主任司祭として着任
    (編集中)
出典:カトリック中央評議会HP

日本26聖殉教者(日本26聖人)

1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒は、1627年に教皇ウルバノ8世により福者に、1862年、教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。この「日本26聖人」のうち、5人はスペイン人、1人はポルトガル人で、残りの20人が日本人です。

日本26聖殉教者のレリーフ(教会ホール)

2月5日 日本26聖人殉教者の祝日

日本26聖人の1人、パウロ三木は1564年から1566年の間に生まれた。イエズス会に入会して福音を宣べ伝え、大きな成功を収めた。やがてキリスト者に対する迫害が激しくなると、他の25人と共に捕らえられ、残酷に扱われて嘲笑を受けた。そして、ついに長崎に連行され、1597年2月5日、はりつけにされて殉教した。日本26聖人は、20名の日本人、5名のスペイン人、1名のポルトガル人である。彼らは1862年6月8日、ピオ9世教皇によって列聖された。

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